今回は、「英語で書かれた文章を読む」ということについて私の考えをお話したいと思います。
(1)の記事で英字新聞の和訳を学習として日課にしていた、ということを書きました。ちなみに当時の私は、「読める」ということを、「新聞の内容を日本語に置き換えて理解できる」と定義していました。
ここに、1997年12月25日付けのDaily Yomiuriの記事があります。
タイトルは、"Have we forgotten our ability to say 'enough'?"です。
記事にはフルーツ食べ放題の画像が載っています。
What you do can impress some but offend others, and in these changing times it is often difficult to know where the boundary lies.
実はノートではこの冒頭の一文が訳されていません。意味不明だったみたいです(苦笑)
「自分がしたことで、感心する人もいれば嫌がる人もいるけど、最近その境目がどこかはわからなくなってきた。」
というような意味かな・・・時代が変わるとそれまでは善とされていたことが悪になることがある。でもその境目は分かりにくいよね~って感じでしょうか・・・
間違ってたら誰か教えて下さいね♪
記事の内容は、景気が下降気味になっていて皆が物を無駄にしないようにしなければならない時代が来たのに、食べ物を無駄にしている。特に高価な料理の食べ放題にその傾向があって、お店の人が嘆いている。
だから、食べ物を無駄にせず、自分の限度を知って必要な分だけを食べるようにしようよ、というお話です。
私はこの記事を淡々と日本語に訳して「読んだ」と思っていましたが、今読み返すと何だか怒りがこみ上げてきます。
特にここ
A food magazine editor said many customers at all-you-can-eat susi restaurants eat the fish and leave the rice.
はぁ?ですよね。それはないだろう、と。
自分がこの記事を和訳して読んだときは、まったくここに反応してませんでしたね。それが何より証拠には、こんな記述があるなんて「覚えて」いませんでした。
でも、今はこの記事の内容が「心に」刻まれました。
食べ物を無駄にしちゃだめです。
新聞記事を書いた人は読み手にそう思ってもらいたかったんですよね。
食べ放題のおすし屋さんで、シャリを食べずにネタだけ食べるような人になっちゃダメだよ、と。そのシャリにも人の手がかかっていて、捨ててしまうのはもったいないんだよ。ということを読み手に伝えたかったんですよね。
英語を「勉強する」ことに集中するあまり、私は書き手のメッセージに目を向けていませんでした。理解しなければならないのは、「英語」ではなく、書き手が伝えたいことなんですよね。
多読をするようになって、物語の力で英語を理解する習慣がついた私には、作者の「伝えたいこと」を理解しようとする読み方ができるようになったと思います。
だから、英語で書かれた小説を読んで感動する、笑ったり泣いたり怒ったりできるんですよね。
単語1語わからなくても、文章1文わからなくても、1章まるごと読み飛ばしても、その本で書き手が伝えたかったメッセージが読み手に伝わって、同じ気持ちでその本を閉じることができればそれでオッケーなんじゃないんですか?
もしそれが例え誤解でも、読み手がその本から何かを感じて、それがその人の心に何らかの影響を与えられたりしたら、それでオッケーなんじゃないんですか?
読むってたぶんそういうことです。
だから、何も伝わってこない本を無理して読むことはないんです。
いつか書き手と読み手の周波数が合う時が来るまで、書架に密かに生息させておけばよいのでは?
難しい本を1冊辞書を引きながら読むより、やさしいけれど心にのこる本をたくさん読む方が楽しくていいな。
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